「旅籠屋(はたごや)」とは江戸時代に盛んになった形式の旅館で、自炊形式の「木賃宿(きちんやど)」に対して、一泊二食付きの宿屋でした。江戸時代の二川宿には平均して30軒程度の旅籠屋があり、そのほとんどは本陣・脇本陣や問屋場のあった宿場の中心である二川中町に集中していました。
旅籠屋「清明屋(せいめいや)」は、江戸時代後期から明治時代まで二川宿で営まれた旅籠屋で、当主は代々八郎兵衛を名乗っていました。本陣の東隣に位置することから、大名行列が本陣に宿泊する際には家老などの上級武士の宿泊所としても利用されました。
明治時代以降の家業の変遷には不明な点が多いものの、古写真によれば呉服・太物・小間物・雑貨などを扱っていたようで、戦後は薬局を営んでいました。建物は平成12年に倉橋家より寄贈を受け、改修復原工事によって主屋・繋ぎの間・奥座敷等を江戸時代の姿に復原し、平成17年4月29日より一般公開しています。
主屋
表構えは、1階が大戸、蔀、2階は全面出格子とする典型的な旅籠屋建築の形態を持っています。2階部分があるのは東海道に面したミセの間等の上部のみです。
現在の建物は解体修理の結果、文化14年(1817)に建てられたものであることが分かりました。
ミセの間・ミセニワ
ミセの間は、街道に面しており板の間になっています。荷物置場や帳場として使われていました。
ウチニワ
奥への通路として土間になっています。ウチニワにはかまどがあって炊事が行われました。
繋ぎの間・奥座敷
手前から奥の間、繋ぎの間、その奥一段高くなっているのが奥座敷です。奥座敷は主屋の最奥部にあたり、床の間と入側が付いています。本陣の東隣にあることから、大名行列の宿泊時には、家老などの上級武士の宿泊所にもなりました。