二川宿の史跡と見どころ
二川宿とその周辺
二川宿は東海道五十三次33番目の宿場町で、江戸日本橋より72里余(約283km)、東の白須賀宿へ1里17町(約5.8km)、西の吉田宿へは1里20町(約6.1km)の距離でした。宿場としては小規模で、町並の長さ東西12町26間(約1.3km)、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によれば、加宿大岩町を含めて、人別1,468人(男721・女734合計合わず)、家数328軒の内本陣1軒、脇本陣1件、旅籠屋38軒でした。
現在でも2ヶ所の桝形とともに当時の町割をほぼ残し、本陣馬場家をはじめとして旅籠屋「清明屋」、商家「駒屋」などがかつての宿場町の様子を今に伝えています。
また周辺には総合動植物公園、自然史博物館、視聴覚教育センター、地下資源館などがあり一日中楽しめる地域となっています。
二川宿史跡マップ(PDF/4.51MB)
マップ1
従是岩屋観音道道標(マップ1-1)
吉田宿から岩屋観音へ向う道が東海道と分かれるあたりに建てられていたと思われる道標です。
岩屋観音(マップ1-2)
・聖観音立像
観音堂は行基が天平2年(730)に建立したと伝えられます。山上の聖観音立像は明和2年(1765)に建立され、街道の風物として道中記などに取り上げられました。現在の像は昭和25年(1950)に再建されたものです。
・岩屋観音堂
天平2年(730)行基によって開かれたと伝えられ、江戸時代には街道を行き交う旅人から多くの信仰を集めました。特に、備前岡山藩主池田綱政は信仰が厚く、黄金灯籠・絵馬(ともに市指定文化財)・手水鉢等を寄進しています。
小渕志ち銅像(マップ1-3)
明治から昭和初期にかけ二川は玉糸製糸の町として知られました。小渕志ちはその発展に尽力しました。
豊橋市視聴覚教育センター・豊橋市地下資源館(マップ1-4)
視聴覚教育センターのプラネタリウムでは星空や天体の学習をすることができます。地下資源館は石油をはじめとする地下資源やエネルギーについて展示をしています。
■問合せ先
視聴覚教育センター 0532-41-3330
地下資源館 0532-41-2833
火打坂(マップ1-5)
岩屋山と松明峠に挟まれた火打坂。当時はこの坂の途中に「尉と姥石」というものがあり、道中記にも紹介され旅人の目を引いていたようです。
マップ2
豊橋総合動植物公園・豊橋市自然史博物館(マップ2-6)
総合動植物公園は遊園地などもあり、家族で一日楽しむことができます。園内にある自然史博物館は、生物の進化と郷土の自然をテーマに展示しています。
■問合せ先 総合動植物公園 0532-41-2185
自然史博物館 0532-41-4747
渥美郡奥郡道標(マップ2-7)
東海道から豊橋南部を横切り田原街道へと続く道の道標として、明治33年(1900)に建てられたものです。当時の分岐点は今より50mほど東でした。
岩屋江八丁道標(マップ2-8)
三河国三十三霊場の二番札所岩屋観音への道標として、弘化4年(1847)に建てられたものです。当時道標は現在地より西の火打坂交差点あたりにあったと思われます。
立場茶屋跡(マップ2-9)
立場は人足が休憩したところです。二川宿西入口見付土居の東側にあり、茶店が軒を連ねていました。
郷倉跡(大岩村)(マップ2-10)
郷倉は年貢米などを蓄えておいた村の共同の倉です。二川宿内には二川村、大岩村にそれぞれ1ヶ所ありました。
問屋場跡(マップ2-11)
問屋場は宿場で人馬継立などを扱う施設です。二川宿では二川と大岩の2ヶ所の問屋場が交代で勤めていました。
伊宝石神社(マップ2-12)
天保15年(1844)に建立され、はじめは「疣石」の字を宛てていました。社殿裏の巨岩に溜まる冷水が疣をとるのに効果があるといわれています。
伏見稲荷(マップ2-13)
淡緑色の花が平安時代の公家装束を連想させることから名づけられたといわれる御衣黄桜が有名です。例年4月中旬頃満開を迎えます。
大岩神明宮(マップ2-14)
文武天皇2年(698)岩屋山南麓に建てられたのが最初といわれ、江戸時代には幕府から黒印2石を与えられました。境内には、寛延4年(1751)の灯籠、文化4年(1807)の秋葉山常夜灯、文政6年(1823)の手水鉢があります。
糸徳製糸場跡(マップ2-15)
群馬県出身の小渕志ちは、二川に移住して明治18年(1885)に糸徳製糸場を設立しました。最盛期の大正時代には約千人の女工が働いていました。
マップ3
高札場跡(マップ3-16)
幕府や大名が法令や禁令を掲示した所で、人目につきやすいところに設置されました。二川宿では二川・大岩境の桝形南側に東向きに建てられていました。
脇本陣跡(マップ3-17)
本陣の補助的役割を果たし、大名の休泊が重なったときなどは脇本陣を利用しました。江戸時代後期には松坂権右衛門が勤めました。
問屋場跡(マップ3-18)
問屋場は宿場で人馬継立などを扱う施設です。二川宿では二川と大岩の2ヶ所の問屋場が交代で勤めていました。
商家「駒屋」 豊橋市指定有形文化財(マップ3-19)
二川宿で商家を営むかたわら、問屋役や名主などを勤めた田村家の遺構です。江戸時代後期から大正時代に建てられた8棟の建物からなり、宿場町の商家の一般的な形式を残しています。入館無料。
■商家「駒屋」
■商家「駒屋」(外部リンク:NPO法人二川宿)
■問合せ先 0532-41-6065
一里塚跡(マップ3-20)
江戸日本橋より数えて72番目の一里塚です。現在遺構は残っていませんが、かつては街道の両側にあり榎が植えられていました。
大岩寺(マップ3-21)
もとは岩屋山麓にあって、岩屋観音に奉仕した六坊の一つと伝えられ、元和8年(1622)遠州浜名郡宿芦寺の通山和尚により再興され曹洞宗に改宗し、のち正保元年(1644)現在地に移転しました。岩屋観音に寄進された絵馬・黄金灯籠等の文化財を所蔵しています。
松音寺(マップ3-22)
康永~貞和年間(1342~50)の創建と伝えられ、明暦年間(1655~58)に遠州白須賀の蔵法寺香外養薫和尚により再興されました。江戸時代、大通行の際の休泊所や、本陣からの避難所に指定されていました。
二川八幡神社(マップ3-23)
永仁3年(1295)鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮から勧請したと伝えられる二川宿の氏神で、境内には宿内の人々の寄進による灯籠が今も残り、かつて宿内新橋町の街道枡形南にあった文化6年(1809)建立の秋葉山常夜灯が移設されています。
妙泉寺(マップ3-24)
貞和年間(1345~50)に日台上人が建てた小庵だったが、寛永~明暦(1624~58)頃観心院の日意上人が信徒の助力を得て再興し、さらに万治3年(1660)現在地に移転して山号を延龍山と改めたといわれています。境内の春乙桜がみごと。
芭蕉句碑紫陽花塚
妙泉寺境内に、寛政10年(1798)に建立され、明治12年(1879)に隣の十王院から移設された芭蕉句碑「紫陽花塚」があります。
あちさゐや藪を小庭の別坐敷
台座には、建立世話人9名が刻まれており、当時の二川宿における俳句の隆盛がしのばれます。
十王院(マップ3-25)
江戸初期に二川宿の本陣・問屋を勤めた後藤家の私庵として開かれたといわれ、後に宿の惣庵となり、寺子屋も開かれました。境内に寛永9年(1632)建立の「二川新町開山碑」と呼ばれる石碑があり、二川村が本郷の地より元屋敷への移転を記念したものといわれています。
二川宿周辺の史跡と見どころ
一里山の一里塚
豊橋市域には4か所の一里塚があったといわれますが、現存しているものは東細谷町所在の一里塚(街道北側)のみで、市指定史跡になっています。江戸時代には、「化物塚」などと呼ばれ、寂しい場所だったようです。
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普門寺
神亀4年(727)行基が開いたといわれ、源頼朝の厚い保護を受け三河七御堂随一として繁栄しました。戦国時代に衰退しましたが今川義元が再興し、江戸時代には徳川氏の保護を受け、格式の高い寺院として多くの信仰を集めました。木造阿弥陀如来座像他の国重要文化財や県指定文化財、市指定天然記念物の大杉など多くの文化財を所蔵しています。
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東観音寺
天平5年(733)行基が開いたと伝えられ、鎌倉から室町にかけて大いに栄えました。江戸時代には、小松原村1村102石が寺領となり、三河三十三観音霊場の一番札所となりました。境内には大永8年(1528)寄進の多宝塔(国重文)があり、その他木造阿弥陀如来座像等の国重要文化財、古境内図等の市指定文化財等多くの文化財を所蔵しています。
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